茨城大学バスケットボール部のご紹介


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リーグ戦を目標にするようになってからの歩み

1990年4月〜1991年3月:cap 影山・岡本

 茨城大学に赴任するにあたり、前任の顧問から男女両チームの面倒を見るように言われていた。なるほど、4月に初めて茨城大学の練習を見るとコート1面で男女一緒に練習をしていた。その後3週間じっくりと様子を観察した後、部員と次のような契約書を交わすことにした。自分たちでやってきたという伝統を崩したくなかったからである。

 1.選手4年生は、いついかなる時でもコーチを解任することができる。

 2.コーチは、選手4年生の許可なくして練習および試合を休んではいけない。

 3.コーチは、以下の事柄を守り、選手はいつでも指摘することができる。

(1)コーチは、口に物を入れたまま体育館に入ってはいけない。

(2)コーチは、試合中ベンチで足を組んではいけない。

(3)コーチは、試合中審判に文句を言ってはいけない。

(4)コーチは、練習中に座って指示を出してはいけない。

 4.コーチは、練習中いつでも10分間選手全員に掃除をさせることができる。

 5.選手は、以下の事柄を守り、コーチはいつでも指摘することができる。

(1)選手は、練習中マネージャーに文句を言ってはいけない。

例年男女とも5月に行われる北関東五大学リーグで引退する伝統であったが、この年4年生女子が初めて秋に行われるリーグ戦まで続けることになった。男女両チームの指導をするにしても、男女が1コートで一緒に練習することのメリットとデメリットを考え、結局、3時間の練習時間を半分づつに分けて指導することにした。ただし、練習方法を急激に変更して混乱を招くより、練習で何を意識しなくてはいけないのかということを中心に指導をした。また、それまで合宿を経験したことがなかったが、選手たちにとって初めての夏合宿を富山県高岡市で敢行した。このころからそれまでの練習方法を改め、徐々に細かいドリルを複合させ、ドリルとドリルの切り替えを早くすることを要求した。当時の選手たちにとって、それまでの3時間の練習よりも徐々に負荷を感じるようになったようである。この年、男女とも比較的運動能力のある選手に恵まれていたが、ゲームになるとバラバラになってしまうことが多かった。それまでチーム内での動きの約束などを特に意識しないままゲームを行ってきたからであろう。北関東五大学大会や関東甲信越大会を活動の中心据えていたが、秋に行われる関東学生リーグを活動の中心に据えるように指導した。

 ○関東学生リーグ結果 男子:5部13位 (総合45位)、女子:2部12位(総合20位)

 

1991年4月〜1992年3月:cap 安澤・真家

 体育館使用規則が定められていなかったのでそれを作成するとともに、体育館運営会議を組織しそれまで異なる種目で1面づつ行われていた練習を1つの種目で同時に2面利用できるようにした。この改革により男子と女子の練習がそれぞれ1コートづつ同時に行えるようになった。また、4年生男子が初めて秋に行われる関東学生リーグまで活動を続けることになった。体育科の推薦入試が初めて行われ、男子に2名の合格者を得たが、うち1人は私立大学のスポーツ推薦とは異なり国立大学の推薦だから部活動に入らなくてもよいと考えていたらしい。この年の卒業生キャプテンの安澤選手は三井海上火災でプレイを継続。また、人文学部の新田選手は、大学院時代にアシスタントコーチを務め、現在山形県米沢商業高校の女子部の監督として、それまで果たし得なかった県ベスト8をここ3年続けている。

春季北関東五大学大会、関東男子新人戦、関東学生トーナメント大会、茨城県社会人大会、茨城県国体予選、夏季合宿、東京遠征、リーグ戦、秋季北関東五大学大会、茨城県総合選手権大会という年間スケジュールに沿った計画をやっと立てられるようになった。しかし、男子と女子の両方のチームを指導することがいかに困難であるかを同時に実感しつつ、それでも全力をあげて両チームの指導にあたった。

 ○関東学生リーグ結果 男子:5部5位 (総合37位)、女子:2部12位(総合20位)

 

1992年4月〜1993年3月:cap 丹治・篠原

 茨城大学は日立に工学部、阿見に農学部があり、工学部や農学部の学生は2年次以上になると練習に通うことが困難となる。そこで、それまで月・木曜を休みとしていたが、月曜日に工学部での練習を開始した。このことによって、週に6日練習することになった。昨年週4回だった練習を週5回に増やし、今年はついに週6日となった。伝統と次々と導入される新しいシステムや練習方法に戸惑いもあり、選手たちの間でさまざまな事件が頻発した。しかし、練習の甲斐あってか結果的には想像以上の成果を発揮した。特に女子はリーグ戦を全敗で終え、初めての入替戦を経験した。国士舘大学を相手に前半24−41と17点もの点差で負けていたが、後半71−68と逆転した。最後に相手の3ポイントが決まり延長となり、延長では、両チームともなかなかシュートが決まらなかったが75−73で勝利を得ることができた。この頃からチームとスタッフの関係を明確にすることで男女両チームの指導が可能であることに気づき始めた。

 ○関東学生リーグ結果 男子:5部1位( 総合33位:4部昇格)、女子:2部16位(総合24位:入替戦の結果2部残留)

 

1993年4月〜1994年3月:cap 安藤・椎塚

 茨城大学に赴任して4年目を迎え、成果を出さなければならないという焦りから、春季合宿を加えるなどかなり厳しい練習に取り組んだ。1−1−3ディフェンスやチェンジングディフェンスなどにも取り組んだ。「のびのびと(1年生)、やるべきことを確実に(2年生)、チームのことを考えて(3年生)、よい伝統を残せ(4年生)」という部訓を作るなど、それぞれの学年の役割やスタッフの仕事など明確にした。しかし、その結果、多くの退部者を出してしまいチーム運営の難しさに直面した。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部6位 (総合30位)、女子2部15位(総合23位:入替戦の結果3部降格)

 

1994年4月〜1995年3月:cap 植戸・水野

 昨年度の反省から、肩の力を抜いてチームづくりに望んだ。自ら活動するという茨城大学バスケットボール部の伝統に立ち返ろうと、なるべくスタッフや選手に練習の計画を立てさせるなどの工夫をした。比較的運動能力の高い選手に恵まれたため選手たちの間では、ずいぶんリラックスして試合に臨む雰囲気ができあがったが、その分スタッフの負担が大きくなった。多くのスタッフをどのように確保するかが課題となった。この頃からディフェンスを主体とし、オフェンスでは徹底したスクリーンプレイ、バックドアープレイを行う茨城大学のチームカラーが定着しはじめた。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部3位 (総合27位)、女子3部3位(総合27位:入替戦の結果2部昇格)

 

1995年4月〜1996年3月:cap 蝦夷森・木村

 この頃から大学改革の仕事に追われ、十分に部活動の指導ができなくなった。昨年度の反省から、男子のスタッフは男子に、女子のスタッフは女子に任せることとし、各学年毎にプレイヤーを兼ねたスタッフを出すように働きかけた。社会人入学の学生や一度退部した学生が再び戻ってくるなど、男女とも多彩なメンバーで構成され、体格的にもバランスのとれたチーム構成となった。もう1ステップ、レベルアップを図るためにそれまでねらっていたバックドアープレイを改め、徹底的にボールサイドカットを行わせて、1対1の強さを求めた。十分な指導ができなかったとは言え、1対1の強化と1−1−3ディフェンスとマッチアップマンツーマンディフェンスのシステムが徐々に浸透し、男女とも安定した力を発揮するようになった。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部3位 (総合27位)、女子2部13位(総合21位)

 

1996年4月〜1997年3月:cap 大内・黒田

 在外研究員として海外へ派遣される可能性が高かったため、徐々に自分たちで全ての計画を立てさせるようにした。4月に行われた北関東五大学大会では女子がインカレに出場するなどの活躍をしていた埼玉大学に勝利し、これまでのチームづくりが実を結び始めたことを物語った。また、渡米が決定してからは、自分たちでゲームを組み立てなくてはならないことを強調し、タイムアウトのタイミングや相手との駆け引きについて選手やスタッフに指導した。8月から渡米したため、選手たちが自分たちでリーグ戦を戦ったのにも関わらず、女子は過去最高の成績を収めることができた。この年から推薦入試の基準が変更され、バスケットボール競技での推薦入学は厳しくなり、推薦での入学者が途絶えた。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部4位 (総合28位)、女子2部10位(総合18位)

 

1997年4月〜1998年3月:cap 生田目・村上

 6月に帰国したが、何と女子の新入部員が0名という状況であった。昨年のメンバーには自分たちでリーグ戦を戦うことについて指導してきたものの、その次の代にきちんと4月からメンバーを勧誘しなくてはならないことの重要性を伝えるのが欠けていた。1年生が入部しなかったため、2年生がいつまでも1年生気分で、女子チームの活性化が難しかった。男子は、推薦による入学者に頼らなくともある程度の運動能力があれば、長身者がいなくてもゲームを征することができるようになった。特に関東甲信越大会ではこの年インカレにも出場した長身チームの信州大学に勝利することができ、長身者対策が徐々に実を結んでいることを物語った。それでも、やはり4部で3位となりさらにレベルアップを図るための新しいシステムを考案する必要を感じた。女子は、新しい材料もなく周囲のチームが推薦入試でどんどん強化を図る中、3部に降格してしまった。リーグ戦終了後、オフシーズンを利用して学内バスケットボール大会を開催した。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部3位 (総合27位)、女子2部14位(総合22位:入替戦の結果3部降格)

 

1998年4月〜1999年3月:cap 内林・大友

 茨城大学に赴任して8年が過ぎ、新たなステップ・アップを求めて、思い切ってシーズン制を導入した。4月〜6月までをプレシーズンと位置づけ、ピックアップゲームを徹底的に行わせた。7月から体づくりを行い8月にチームづくり、そして9月からリーグ戦である。実質4ヶ月だけのチームでの活動である。選手たちは大いに戸惑いながらも、着実に一人ひとりの強さが見えるようになってきた。しかし、1年生のディフェンスの力がつかないことが判明し、オフシーズン中の課題が見えてきた。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部5位 (総合29位)、女子3部3位(総合27位:入替戦の結果2部昇格)

1999年4月〜2000年3月:cap 斉藤・菅原

 新システムを導入して2年目を迎え、一人ひとりの権利と義務と責任をしっかりと意識しながら行うピックアップゲームに本格的に取り組んだ。昨年の反省から1年次のディフェンスはある程度しかたがないながらもそれを上回るオフェンス力を身につけるべく一人ひとりに高い自覚を求めた。その結果確かに1対1のオフェンス能力の高さやゲーム運びのうまさが出てきたもののチームディフェンスはやはり上級生を主体としなければならなかった。また、オフェンスの基本的なシステムがいつのまにか失われてしまい、スクリーンプレイやバックドアープレイの重要性を改めて実感した。女子チームは、4年生6名、3年生1名(編入生)、2年生2名、1年生2名という構成となり、来シーズンはチームの存続も危うい状況となってしまった。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部6位 (総合30位)、女子2部16位(総合24位:入替戦の結果3部降格)

 

2000年4月〜2001年3月:cap 大坂・永田

 ここ数年続いている傾向だが、明らかに部活離れが深刻な状況を生みだしている。特に女子は実質6名でのスタート。高校までの経験者は辛い過去を引きずっていた。1・2年生の初心者を得て、何とかリーグ戦に望むことができた。車椅子で東京まで応援に駆けつけたスタッフ等によって、昨年初心者として編入学したキャプテンを支え、チームとしてのまとまりを得た。男子の新入生は、工学部主体となった。新システム導入によってチーム・ディフェンスがどうしても上級生主体となってしまった反省を活かし、プレシーズン中から週に1度はチーム・ディフェンスの練習が行われた。これによって2年次からチームディフェンスができるようになったが、他大学に長身者が多く、苦戦を強いられた。リーグ編成の変更が予定されていたことなどからどこかに油断があり、同じ国立大学である東京大学、東京学芸大学に勝利できなかったことが悔やまれる。選手の出場時間に偏りが出たこともあって、リーグ終了後、工学部の新入生の多くが次年度へ向けての活動を見送ることになった。また、リーグ終了後、オフシーズン中に様々な事件が頻発し、スタッフの責任を痛感させられた。

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部5位 (総合29位)、女子3部10位(総合34位)

 

2001年4月〜2002年3月:cap 埜渡・鈴木

 新システムとなって4年目の年。ピックアップゲームの始め方をレッドゾーンからスタート。男子ディフェンス力が高まり長身者に対してチームで守れるようになってきた。個人技を主体としたオフェンスはバランス力がアップ。女子はシーズン当初から1−1−2プラス1を採用。4対5になっても揺るがないディフェンス力を身につけたが、体力負け。オフシーズンの体力トレーニングの重要性を再認識。

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部8位 (総合28位)、女子3部6位(総合30位)

 

2002年4月〜2003年3月:cap 三石・吉村

 男子は他大学の長身者がさらに増えインサイドが厳しくなり、アウトサイドからの3ポイントシュートに頼らざるを得なくなる。土曜日に種を蒔き、日曜日で競り勝つパターンが増える。女子は少ない人数でチームとしてのまとまりが高く、圧倒的な強さで3部優勝ながら、入れ替え戦で群馬大に惜敗!

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部8位 (総合28位)、女子3部1位(総合25位)

 

2003年4月〜2004年3月:cap 岩佐・三村

 新監督・コーチ体制発足。加藤現場を退き、指導者講習会に専念。男子大人数でエントリーにも入れない選手が出る。リーグ戦方式が変わり、同一チームと2日連続した試合ができず、勝てない日々が続く。土壇場で踏ん張り、入れ替え戦に出なくて済む。女子1年生6名入部で人数が増え、体格にも恵まれたがチームづくりの遅れが響く。

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部10位 (総合30位)、女子3部7位(総合31位)

 

2004年4月〜2005年3月:cap 金子・塙→三村

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部3位 (総合27位)、女子3部6位(総合30位)

 

2005年4月〜2006年3月:cap 後藤・庭田

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部B6位 (総合30位)、女子3部4位(総合28位:入替戦の結果2部昇格 総合24位)

 

2006年4月〜2007年3月:cap 須部・庭田

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:3部B6位 (総合30位)、女子2部16位(総合24位:入替戦の結果3部降格 総合28位)

 

2007年4月〜2008年3月:cap 鈴木・深谷

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部5位 (総合37位)、女子3部2位(総合26位:入替戦の結果3部残留)

 

2008年4月〜2009年3月:cap 嶋村・磯前

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部5位 (総合37位)、女子3部8位(総合32位)

 

2009年4月〜2010年3月:cap 嶋村・樽本

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部6位 (総合38位)、女子3部9位(総合33位)

 

2010年4月〜2011年3月:cap 霜村・冨山

 

 ○関東学生リーグ結果 男子:4部10位 (総合42位)、女子3部16位(総合40位)