私のUCLAバスケットボール奮戦記

茨城大学 加藤敏弘

1996年8月20日〜1997年5月20日

文部省在外研究員としてUCLAを中心にバスケットボールの構造理解のため滞米


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まえがき

(1997年6月19日未明 フランクフルトから成田へむけたLH710便にて)

 バスケットボールというスポーツがアメリカで生まれ,アメリカを中心に発展してきたという事実は誰にも疑うことはできません。そして,100年以上経った現在でもアメリカの人々に心から愛され,親しまれているという事実もまた疑うことはできません。そのアメリカに一人の外国人(私)がほんの9ヶ月の間だけ滞在して,いったい何が分かるというのでしょうか?

 現実の問題として言葉の壁があり,文化の壁があり,生活習慣の壁があります。それでも,そうした壁とぶつかりながら必死になって生活したという実感は,私のからだの中に息づいています。これから語ることは,あくまでそうした生活実感に基づいたバスケットボール論であり,本当に個人的な感想でしかありません。

 今までも様々な人々が同じような経験を積んできました。そして,様々な形で断片的に人々の間に伝わっております。私も日本にいたときにはそうした断片的な情報に聞き耳をそばだて,よく右往左往したものです。しかし,よく考えてみると人は生きる時間も空間も異なります。それぞれにそれぞれの人生があり,他人と共有することは非常に難しいことです。それだけに,他人の生活が気になるし,知りたい。ところが,いくらそれを知ったところで特に自分の生き方が変わるわけではありません。本当に知りたいことは自分自身の中にあった,などということは誰でも思い当たる節があるでしょう。

 今回の私の滞在も実は非常にそれに近いものがあります。ただし,予想を遥かに上回る様々な事件に巻き込まれ,アメリカ人の口から「1シーズンで10シーズン分の経験をした」と言わしめるほどの経験でした。そして,外国人であるがゆえに,アメリカ人以上に様々な事柄を敏感に感じ取ることができたと言えます。そのことが私自身のからだの中にくすぶっていたものを実に明確にしてくれました。ですから,この報告で書かれるものは,今回のロサンゼルス滞在以前から私のからだの中に眠っていたものも含まれています。

 この報告は,個人的なものです。私が経験したことは私だけのものであり,普遍的なものではありません。私にできることは個別的な体験を出来るだけ多くの人に知ってもらい,そしてみなさん自身のバスケットボール生活を見つめ直すきっかけにしてもらうことです。そして,少しでも日本のバスケットボールの将来について共通の土俵の上で語り合えるようになりたいのです。

 みなさん自身のバスケットボール生活の薬味になれるよう,なるべく詳細に,当時綴った「ロサンゼルス奮戦記」をもとにして,そのエッセンスをお届けしようと思います。


公開にあたって(2000年9月22日)

 在外研究員としてUCLAで学んでから、はや3年が過ぎ去ってしまいました。せっかく貴重な体験をさせていただいたのにもかかわらず、その成果をみなさんにご披露することもできず、相次ぐ大学改革のうねりの中で雑用に追われています。ようやくホームページという新しい表現の場を作り出すことができ、多くのみなさんからアクセスしていただけるようになってまいりました。このことを励みに、あの貴重な体験をおそまきながら公開していきたいと思います。上述のように「まえがき」を執筆したのはまさに帰国直前です。構想はその当時からあったのですが、あいにく公開する手段を持ち合わせておりませんでした。この奮戦記は、原稿用紙に換算すると1500ページを越えています。そこで、少しずつみなさんに公開するに耐えられる部分のみを抜粋して日を追ってご紹介していきたいと思います。どうぞ、みなさまおつきあい下さい。


  

  

 

 

12/15掲載 チャーリーとの再会(12/14/2000)


1996年8・9月 10月 11月 12月 1997年1月 2月 3月 4月 5月


あとがき(2001年5月20日)

 今から21年前のこと、当時私は大学1年生でした。私のおじさんがUCLAで研究をしていたことから、春休みに友人と2人で約2週間ほどおじさんのアパートにころがりこんだことがあります。アパートからUCLAまで走って40分ほどの距離でしたが、友人と2人で毎日UCLAに通いました。ある日、途中のスポーツ店でバスケットボールを購入し、そのボールを小脇に抱えて街の中を走っていました。信号待ちをしていると交通整理か何かの黒人のおじさんが「ヘイ!パス、ミー!」と言って手のひらをこちらに向けます。そこで、ボールをパスすると何回もドリブルをして楽しそうです。一瞬、「もしかして買ったばかりのボールを盗られてしまったのか?」と思ったものの、信号が青に変わり、おじさんに近づいていくと「グッド、ボール!」と言って白い歯を見せながら返してくれたのを思い出します。当時もUCLA構内では、朝から晩までどこかでピックアップゲームが行われていました。友人と2人で午前中から日が暮れる直前までプレイを楽しんでいたのです。

 今回の在外研究にあたって、実は計画段階では全く別の大学へ行くつもりでした。あわよくば高校のチームに同行しようともくろんでいたのです。しかし、偶然にもUCLAに決まりました。これも何かの縁です。一昔前のあの経験をさらに深め、全米トップクラスのチームづくりをこの目で見ようと出かけ、そして、例の解任事件に巻き込まれました。

 この奮戦記をお読みになった方はおわかりでしょうが、私には妻と子どもが4人います。実は4人目の子どもは、出発時にわずか生後4ヶ月でした。上の3人の子どもたちをそれぞれ現地の小学校・幼稚園・保育園に入れ、妻と私もわずか1ドルでアダルトスクール(英会話教室)に通いました。この奮戦記では、バスケットボールに関わる部分だけを抜き出して掲載しましたが、実は家族ぐるみで、それぞれの場所で様々な事件に巻き込まれながらの生活でした。ある時は、800ドルもだまし取られてしまったこともあります。本当に人種の坩堝とも言えるロスならではの経験だろうと思います。しかし、今思えば本当にロスでよかったと思います。「ファー・イースト」の国の日本人だからこそ、まさに「ファー・ウェスト」のロサンゼルスで、文化の違いをひしひしと感じることができました。

 お読みになっていて気づかれたと思いますが、この奮戦記にはバスケットボールの具体的な戦術や練習や試合内容に関する情報はほとんど掲載されていません。そうした内容は、分刻みで分厚い1冊240ページもある大学ノート4冊に殴り書きされています。しかし、私が中学時代から執り続けているバスケットボールのノートと同様、今は静かに眠っています。

 私は、バスケットボールが大好きです。しかし、現在、日本で行われているバスケットボールには常々疑問を感じています。子どもたちはバスケットボールが大好きなはずですが、バスケットボール以外の様々な要因でバスケットボールから去っていきます。ここは日本ですから、ロスと同じようにいくはずがありません。私自身の指導のあり方についても、いつも戸惑いと疑問を感じながら、試行錯誤の連続です。

 本当に嫌になることもありますが、そんな時、あの信号待ちの時のおじさんの白い歯を思い浮かべます。そして、今回ロスでお世話になったあらゆる人種の友人たちの姿が目に浮かびます。文化の壁を越え、バスケットボールの魅力は、必ずあらゆる人々の心をとらえてくれるものなんだ、と自分に言い聞かせています。

 バスケットボールの神様に失礼のないように、これからも少しずつ努力していこうと思います。今後は、具体的なバスケットボールの技術や戦術や試合や練習の内容をみなさまと一緒に考えていこうと思います。時間はかかると思いますが、そうすることでしか日本のバスケットボールを変えることはできないのかもしれません。

 出発前、そして在外中、帰国後に至るまで、本当に大勢の方々にお世話になり、支えていただきました。本来ならお一人ずつお名前を記載して御礼を申し上げるところですが、とても書ききれるものではありません。末筆ながらこの場をもって改めて御礼申し上げます。みなさま、本当にお世話になりました。


(2001年2月11日)

 今までSコーチと記してきましたが,4年前の今日,正式なヘッドコーチに就任されたのでお名前を掲載させていただきます。本文中,彼に対する疑惑,あるいは不信感が表現されていますが,当時の状況を考えると私自身が非常に不安定な精神状態でしたので,適切さを欠いている部分もあります。しかし,当時の正直な気持ちですので,削除や変更することなしに,今後も掲載させていただきます。

 シーズン終了後,彼にシーズン全体についてインタビューしました。当時,彼も私に対して少し警戒していた感じでしたが,そのインタビューを通して,やっとお互いに分かり合えることができました。彼はその後,毎年UCLAを全米ベスト16に進め,その実績が高く評価され今年度もヘッドコーチとして活躍されています。みなさん,是非,この奮戦記を通して彼が当時どんなに困難な状況に立たされていたのかを感じとって下さい。そして,現在の彼を応援してあげてください。よろしくお願いいたします。