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チャーリーとの再会(12/14/2000)


 懐かしい笑顔がそのままに代々木第2体育館のフロアーに見つかった。スキンヘッドでちょっといたずらな、そしてどことなくあどけなさが残るチャーリーの顔は、4年前UCLAで見せていたその顔と全く一緒であった。トヨタの黒いTシャツとだぶだぶのジャージに当時よりほんのちょっと一回り太くなった黒い体が覆われていた。コートの一番端のベースライン側でチームメイトと一緒にウォーミングアップをしていたが、僕は思わず近づいて声をかけた。最初はちょっと分からない様子であったが、「4年前のUCLAで・・・」と言うとすぐに思い出した様子。久しぶりの再会。そして固い握手。

 思えば本当に苦しいシーズンであった。それはチャーリーにとっても、そして僕にとっても。シーズンが始まって2週間後に突然起きたジム・ハリックヘッドコーチの解任。そして若いアシスタントコーチのもと困惑続きのシーズン開幕。チーム内でぶつかり合う個性の強い選手達をキャプテンとしてまとめ上げながら、本当によく耐えたチャーリー。このままではどん底へ落ちていきそうな状況の中、それでも若いスタッフも選手たちも、栄光を目指してぎりぎりのところで力を発揮した。そして、全米トーナメントでベスト16に入った。もちろん、シーズン開幕以前の予想では、4本の指に数えられたチームであったのだから、当然といえばそれまでである。しかし、あの深刻な事態からはとても想像できないような好成績であった。

 その後、チャーリーはNBAでプレイし、今シーズンはトヨタ自動車と契約を結び、今僕の目の前にいる。僕の体は彼との出会いで突然4年前にワープしたような感覚に陥ったが、明らかに周囲の雰囲気は異なっていた。あの明くて巨大なポーリーに比べるとコートの上だけがやたらと明るいくせに、コート上から見える薄暗くてちょっとしかない観客席には、華やかなマーチングバンドの応援も、熱気あふれる観客の姿もない。コートサイドに設置されたスピーカーから大音量の音楽がかかり、日本語と英語混じりのDJの声がむなしく響いていた。もし、僕がUCLAであの体験をしていなかったら、「日本のバスケットボールも賑やかになったなぁ」と思ったに違いない。これまで何度か地方の日本リーグを見てきたが、あのいつも動員されて集められた中・高生の姿に変わり、ここ代々木第2体育館にはバスケットを愛するカップルや大人達が静かにプレイを楽しみに来ている。木曜日の午後7時からのゲームなのでむしろよく人が集まっているというのが、正しい判断だろう。しかし、あのポーリーと比べてしまうと、涙が出てきてしまうほど空席が目立つ。せめてボッシュとトヨタのチアーガールが陣取っている席ぐらい満杯になって騒ぎまくっていてくれたらと思うのだが、どちらの席にも会社から直行してきたと思われるスーツ姿のしかも重役クラスの一群がその中央あたりに陣取っているにすぎなかった。これがロスならたとえ同じ重役さんでも一度帰宅し、ポロシャツに着替え、奥さんと子どもを連れて大きなホットドックやポップコーンを頬ばりながら、ギャーギャー騒いでいるところだろう。

 ゲームが始まり淡々と時が過ぎてゆく。チャーリーはもう一人の黒人プレイヤーと意識で結ばれていたが、それ以外の日本人選手とは、まったく感覚がずれていた。時折、その動物的なカンによってオフェンスリバウンドからの激しいダンクや日本人選手や審判までもが全く予測できないような高さでブロックショットを繰り返していたが、あきらかに耐えていた。チームの約束事に忠実に次々とスクリーナーとして右に左にスクリーンをセットする。そしてゴールのすぐ脇に投げられるであろうはずの、そしてそのままアーリーウープで豪快に得点を重ねるはずの、いつまで待っても来ることのないパスに彼の体は自然に準備していた。しかし、そのパスを出せる日本人選手はいない。しかたなく、彼はアウトサイドでボールをつなぎ、時折3ポイントシュートを放つが、ネットを揺らすことはなかった。

 4年前彼のシュートが不調だったとき、彼にアドバイスしたことがある。「顎を引くのではなく後頭部をつり上げるような形で軸を作ってみては?」彼は優等生であり、自分をよくコントロールすることができる。しかし、彼の体はたぐいまれな運動能力を秘めていて、そのエネルギーを余すところなく発散しなければ収まらない。そのエネルギーの出所を求めてついつい喉を開くために顎が上がり、そして大きく口から息が出る。すると彼の視線からは、いつもと変わらぬ位置にリングが見えているようだが、実は微妙にいつもの視線より下にリングがあり、そのために放物線(アーチ)がなくなってしまうのである。

 今日の彼の3ポイントシュートも全てリングの手前の縁に当たっていた。あの時とまったく同じである。おそらく彼自身もどこかで意識しているだろうが、優等生ゆえにその解決の糸口がつかめずにいるに違いない。時折、ボールを激しく床にたたきつけることで、おそらく自分でも気づいていない彼の体の中に潜んでいる野獣のような激しさを、それでも遠慮がちにそしてささやかに表現していた。

 試合は、徐々にボッシュのインサイドとアウトサイドのコンビネーションで得点が離れ始め、最後は一方的なゲームになってしまった。それでも彼はひたすら仕事をしていた。リバウンドをとり、ドリブルし、先行する日本人選手にパスをし、そしてゴール下に走り込む。そこへ、大きく弧を描いたパスが・・・・、来ない。彼の体は誰よりも高く飛び上がる準備をしたまま、そのエネルギーの出所を求めていた。

 ゲームが終了し、ロッカールームの外で彼を待った。日本人選手やスタッフは今日の敗戦に苛立っていたが、遅れて出てきたチャーリーの顔は穏やかだった。彼に声をかけると、いつもの笑顔がそこにあった。再び握手をしながら、再会を喜び合うことができた。彼もよく覚えていてくれたようで、僕の相変わらずつたない英語を熱心に聞き入れてくれた。日本とアメリカではバスケットボールの感覚が違う。是非、日本人選手にその感覚の違いを伝えて欲しい。彼はよく心得ていたようだが、実際に日本人選手にあの感覚を伝えるのは、非常に難しいであろう。僕自身、日本に戻ってきて、あの手この手で茨城大学の選手達を刺激し、丸3年たってようやく、あの感覚の片鱗だけが伺えるようになってきたのである。ほんの短い時間の会話であったが、またの再会を約束し、彼と別れた。