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UCLAバスケットボールオフィスとの出会い(8/22/1996)


 ロス到着後3日目にして,ようやくこのレポートを書く余裕がでてきた。長い長い3日(時差があるので実質4日)間であった。この3日間を振り返る前に,やはりバスケットボール・オフィスとの出会いをまず最初に書こうと思う。

 

 ことの始まりは,インターナショナル・スチューデント&スカラーズでJさんに出会ってからのことである。ビザ取得で大変お世話になったTさんと挨拶をし,Sさんから資料をもらったり,保険や9月の様々なプログラムの説明を受けた。そしてIDカードやインターネットのアカウントの件など,僕に関する具体的な事柄は,アスレチック・デパートメントで便宜を図ってもらわないといけないことがわかった。僕が戸惑っていると,彼女はJさんと話をした方がよいと,僕にJさんを紹介してくれた。彼はここのスタッフで,とても親しみのある笑顔で僕を出迎えてくれた。話の様子から彼は僕の履歴やなぜここに来たのかなどをよく理解してくれているようであった。そこで僕は「ジム・ハリックコーチにいつ会ったらよいだろうか?」と当初から不安になっていた質問をしたら,彼は逆に「おまえはいつ会いたいんだい?」と質問してきた。僕は「会えるなら今日でも会いたい」と返事をすると,彼は「よし,連れていってやろう」と自分のスケジュールを確認し,12時15分に一緒に行くことにした。アポイントメントをとっていないのに,会えるのか疑問に思った(後で述べるが,この件に関しては初日に失敗していた)が,思わぬ展開に興奮を覚えた。小一時間ほど時間があったので,ホテルに一度戻ってコーチへのおみやげをとって引き返した。慣れないスーツを着て,自転車(到着した日に購入した)をこぐものだから,汗だくになってしまった。乾燥しているとはいえ,日差しははやり強い。

 12時20分に彼とオフィスを出て,バスケットボール・オフィスへと向かう。大神先生(注1)と一番最初に電話した時のメモに確かJさんの名前があったのではと,確認してみたらやはり彼のことであった。大神先生によれば,もしIAP−66(ビザ取得のための必要書類)がなかなかこなかったら彼に連絡をすればよい。彼はとても親切で子供のことでも世話になった。僕の名前を出せば必ず力になってくれるとのこと。偶然とはいえ,やはり人のつながりは不思議な糸で結ばれているのだと思った。歩きながら,大神先生の話をすると彼は本当に喜んでいた。彼に心ばかりのおみやげを差し出すと,さらに喜んでくれた。

 Jさんはすれ違うほとんどの人と挨拶を交わし,話をし,3拍子の握手をした(この握手は17年前(注2)に見たものと少し違っていた。時代とともにやはり変化するのだろう)。日本の大学では,軽く会釈すれば良い方で,知らん顔は当たり前,ひどいのは無視,ないしは完全に下を向いて歩いている姿がほとんどなのに,何という違いだろう。50mぐらいの間に8人ぐらいと立ち止まって話をするので,なかなかたどりつかないのである。

 そうこうしているうちに,バスケットボール・オフィスの人と出会い紹介された。とにかく関係者であるということが分かったとたんに緊張してしまい,彼の名前や立場など全然理解できないまま,僕はとんちんかんなことを口走っていた。「僕はたくさんの経験をしたい。コーチングも勉強したいし,P.E.プログラムのことも知りたいし,バスケットもプレイしたい。」そんなことを言ったのではないかと思う。彼は,少し戸惑った様子で「ジャスト・バスケットボール」と返事をした。今考えれば,バスケットボールの関係者なのだから「バスケットのことだけだよ」と言われるのは当たり前のことで,体育のことなど知りはしないし,ましてやプレイしたいなどと,コーチのくせにいったい何を言っているのかこいつは?と思われたに違いない。だが,その時の僕には,まだ,UCLAの組織やシステムが理解されていなかったので,しかたないとしよう。彼の誤解が解けるように努力することにしよう。

 Jさんが彼にコーチはどうしているかを尋ねたら,今は不在であるとのこと。結局,引き返すことになった。引き返しながら僕は17年前にUCLAを訪問した時の写真を見せた。彼はとても興味深そうに写真を1枚1枚めくりながら,今とずいぶん変わっていると言っていた。最後に「とても大切な記念だね」と大事そうに返してくれた。午後3時頃に再びコーチを訪ねようとのことであったが,アパートの契約があるので4時にしてもらい,名刺を交換してオフィスを出た。

 日差しはますます強くなり,たくさんの人がメンズ・ジムの裏にあるスナック付近に溢れていた。僕は,17年前の記憶をたどりながら大学の食堂を探し当て食事をし,ホテルでアパートの書類と保険の書類に目をやるが,頭の中はどうしてもジム・ハリックコーチと会った時にどうしたらよいのかで一杯であった。

 約束の時間10分前になってあわててアパートを飛び出し,再びインターナショナルのオフィスのあるメンズ・ジムへ自転車をこぐ。せっかくシャツを取り替えたのにオフィスについたら汗が止まらない。Jさんはどこかへ出かけているようで,10分ほど待って,バスケットボール・オフィスへ急いだ。その途中で再び昼に会ったスタッフととても大きな選手が前を歩いていた。僕は,すかさずJさんに彼の名前と立場を訪ねた。彼の名は,「D」でアドミニストレーターとのこと。アドミニストレーターの意味が最初よく分からなかったが,要するにチームの経営,すなわち様々な渉外などに携わるのであろうとおぼろげながら思った。彼らに追いつき再びコーチの居場所を確認すると「おそらくいないだろう」とのこと。それでもJさんは,僕をアスレチック・デパートメントの中へ案内してくれた。

 他の建物に比べるとさほど大きくはないが,入り口をはいるとスポーツの歴代の記録が陳列されたスペースがあった。その反対側にガラスの扉があり,中にはいると一人一人のスペースを区切った見事なオフィスが広がっていた。その右奥の一角がバスケットボール・オフィスとしてまとまっており,さらにその一番奥にジム・ハリックコーチの部屋があった。

 やはりジム・ハリックコーチは不在であったが,Jさんは僕を次々とバスケットボール・スタッフに紹介してくれた。彼の紹介の仕方はざっとこんなもんである。僕の簡単な紹介の後,彼らの仕事ぶりを褒め称えながら,笑顔と大きなジェスチャーで長々と語るのである。僕はほとんど意味が分からなかったが,スタッフがみんな笑いだすのでユーモアを交えながらきっと上手に紹介しているに違いない。こんなところが彼の友人の多さの秘訣なのだろうとそのとき思った。とにかく不思議なくらい何度もことあるごとに握手をしている。

 彼らは少しずついろいろなことを僕に尋ねるが,理解しようとすればするほど無理がでて,完全にパニックになってしまった。やはり無理はいけない。分からないのならわからないなりに無理をしなければ,うまくいくような気がする。一人一人の名前を覚えなくてはいけないと思うが,何がなんだかわからないうちに,Jさんに連れられてオフィスを出た。今日,ジム・ハリックコーチが不在でかえってよかったのだと思う。


注1)山形大学の大神訓章先生は、私の大学の大先輩で、かつて私と同様UCLAにてバスケットボール研究をなさっておられました。出発前から適切なアドバイスをいただきました。本当にありがとうございました。大神先生が在外研究期間中、当時小学生だったお嬢様は、現在、バスケットボールプレイヤーとしてご活躍中です。

注2)私は大学1年の冬休み期間中、友人の隅谷君と一緒に16日間、ロスに旅したことがあります。私のおじさんがちょうどUCLAに在研中で、おじさんのアパートにころがりこんだのです。有名な観光名所は何カ所か周りましたが、ほとんど毎日UCLAの構内で朝から晩まで「ピックアップゲーム」をやっていました。今回の在外研究の目的の一つは、その時体験した「ピックアップゲーム」の仕組みを正確に把握することでした。これは、一応論文にまとめましたので「バスケットボール研究」のページをご覧下さい。