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保険手続きのトラブル(8/27/1996)


 今朝も10時にメンズ・ジムへ行ってプロ選手たちのピックアップゲームを見物した。というのは,マジック・ジョンソンが来るという噂を聞きつけていたからだ。あいにくマジックは姿を現さなかった。インターナショナル・スチューデント&スカラーズのH君に僕の遺体を運ぶ保険(注1)に加入するのにアスレティック・デパートメントの誰を訪ねたらよいか調べてもらいビジネス&ファイナンス担当のMさんを紹介してもらった。しばらくJさんを待ってからJさんと一緒にアスレティック・デパートメントに向かった。まず,バスケットボール・オフィスに挨拶に行ったが,ジム・ハリックコーチはM電機の招待で日本へ行っていて留守だった。スタッフも少なく簡単に挨拶をして,僕は2階のMさんを尋ねていった。彼女は僕の言いたいことをすぐに察してくれて,書類をいくつかもってどこかへ出かけ,判断を仰いでいた。結局結論は,ジム・ハリックコーチにサインしてもらうのが一番だろうということだ。コーチは今日本へ行って不在であることを彼女に伝えると彼女はどこかへ出かけていつまで待っても帰ってこない。僕は,下に残したJさんが気になってバスケットボール・オフィスへ行ってみると,なんとそこにMさんが秘書と口論していた。

 僕は,ジム・ハリックコーチに「自分のことは自分の責任でやるから,練習やゲームを見せてくれ」と頼んであった。しかし,周囲の人はその辺の事情がわからないから,僕がジム・ハリックコーチのもとで勉強するものだと思いこんでしまうし,それがどの程度のものか誰もわからないのである。実際,今の僕にも分からない(注2)。秘書は,僕がジム・ハリックコーチからいただいた手紙の「observe」の部分に下線を引いてMさんに説明をしていた。つまり,バスケットボール・オフィスは練習や試合を観察すること以外は,何も責任を持たないということである。確かに世界中からそういう人がひっきりなしにやってくるのだから当然のことだろう。大神先生にもそのことは聞いていたので,僕は決して迷惑をかけるつもりはないことを言おうとしたが,言葉足らずではますます傷口が広がってしまいそうなので,おとなしく退散することにした。秘書は,「Jさんにサインをしてもらってくれ。」と言っていた。インターナショナル・スチューデント&スカラーズがアスレティック・デパートメントの様子が分からないのと同じように,彼女もインターナショナル・スチューデント&スカラーズの事情が分かっていないようだ。Jさんはただ単にバスケットが好きなだけで,仕事以外のつきあいで僕を紹介してくれているだけなのだ。Mさんが不思議がっているようだったので,「何も問題はない。僕は何も気にしていないよ。」と言って笑顔で分かれた。

 アスレティック・デパートメントの外に出ると,Jさんが待っていてくれた。僕はJさんに「ちょっと問題が起こったが,日本と一緒だ」と言った。とても彼にサインをしてもらうわけにはいかないと思ったので,そのことは黙っていた。彼も軽く「何も問題はない。インターナショナル・スチューデント&スカラーズの誰かがサインしてくれるさ」と言っていた。大きい組織は,やはりいろんなところで連絡が難しい。


見事な応対(8/27/1996)


 インターナショナル・スチューデント&スカラーズに帰るとJさんはSさんに「おい,サインをしてやってくれ」と言っていた。僕はH君に小声で事情を説明していたら,Sさんが「しょうがないわねぇ」という感じで,しかし,僕には笑顔でサインをしてくれた。僕は本当に申し訳なく思い何度も頭を下げていた。日本でもよくある話なので,そんなことをH君に話をしていたら,彼は「時間はありますか?」と僕に尋ねる。僕は「午後1時までに小学校へ行かなければならない」と告げると時計を見て「ちょっとだけ時間をください。私のボスはそういうシステムがうまくいかなかった時のことに,大変興味を持っています。是非,今日あなたが遭遇したことを話してください。」と丁寧に僕に告げた。「すばらしい!」彼は,僕の片言の英語からすべてを察知し,しかも自分一人の判断でボスに話をさせたがっている。「さすがだ!」と思い,もちろん快く引き受けることにした。

 大きな体のボスは,H君から簡単に説明を受けると,僕を椅子に招き,まさに膝と膝をつきあわせて話を聞いてくれた。丁寧にゆっくりと一つ一つをかみしめるように真っ黒な顔に真っ白い歯を見せて笑顔で受け答えをしてくれた。僕は,「問題ない。何も気にしていない。」ということを告げたが,彼は「もし,また何かあったら遠慮なく言ってきてくれ。そうだ,こんどJさんと君の家族と一緒に食事をしよう。そしてバスケットボールの話をしよう。」となんと僕を食事に招待してくれた。彼もバスケットボールが大好きでたまらないそうだ。「バスケットボールを愛している」という共通の事柄が,国境を越えてビジネス以上のつきあいを生み出してくれた。


ロッカールームでの出会い(8/27/1996)


 メンズ・ジムへ行きロッカーを使いたいと思ったが,どうもどういうシステムなのかよくわからない。うろうろしていたら,小さな窓口にM君がいた。彼にロッカーを使用したい旨を伝えると,ウッデン・センターの2階で手続きをしてくれとのこと。さっそくウッデン・センターを尋ねるとはやり年間のロッカー使用料32ドルを支払って,僕専用のロッカーを借りることができた。メンズ・ジムのA356というロッカーである。M君は日本に一度行ったことがあるらしく,日本が大好きだという。いろいろ話をしていたら,彼のジム・ハリックコーチに対する見方には厳しいものがあった。つまりUCLAは一昨年優勝していたが,昨年の成績は芳しくなかったのである。彼はUCLAの学生だが,昨年の成績に対してやはり不満があるようだ。そのことがすぐにコーチに対する厳しい見方につながるところは,本当に厳しい世界なんだと思った。僕のように負けても誰にも何も文句を言われないような環境でぬくぬくコーチをしているのとは,訳が違うということを実感した。

 彼の仕事は,何かというとロッカーのトラブルの対応とタオル交換である。僕も1つバスタオルを渡されたが,シャワーを浴びタオルが濡れたら,何回でも新しいのと取り替えてくれるのである。ただし,必ず取り替えるシステムである。2つは絶対に渡されない。なかなか良くできたシステムだと思う。日本でもこういう環境が整えば,きっともっと多くの人が気軽にスポーツで汗を流すようになるのではないかと思った。


少年たちとのピックアップゲーム(8/27/1996)


 着替えを済ませさっそく2階へ上がっていくと何人かゲームをやっていた。僕は久しぶりだったので簡単に柔軟をしてから,若者たちのグループへ近づき「バスケットボールをプレイしたい」と言った。一人の少年が僕の言うことに耳を貸してくれ,仲間を集めて2対2のゲームをした。彼らは本当にゲームの楽しみ方を知っていた。決してうまい訳ではないが,自分のするべきことを心得ていて,べちゃべちゃしゃべっりながら駆け引きをし,楽しいゲームであった。一人はちょっとおでぶちゃんで膝が悪いらしくあまり動けないが,僕とチームを組むと要所要所でシュートを決めた。1ゲーム10ゴールでウィナーズ・アウツ。3ポイントラインの外側からのシュートが決まると2ゴールにカウントする。「21点ゲームでシュートを決めたら引き続き攻撃権を得る」という僕が日本で密かに広めていたルールとほぼ同じである。17年たっても基本的には変わっていないのだと思ったが,あの時は確か13ゴール26ポイントだったと思う。3ポイントルールの導入からポイントを数えるのが面倒になってゴールカウントになったのだろう。確かに覚えやすくて明快だ。あっという間に時間がたってしまい,急いでシャワーを浴びてユキ・インポート・サービスへ向かった。


ウェストウッド・パーク(8/30/1996)


 日本では今頃男女ともリーグの第1週目が終わり,きっと良い試合を展開したに違いない。何しろリーグは長いので最終日がくるまで是非自分たちを見失わないようにしてもらいたいものだ。

 11時頃からアパート選びの決め手となったウエストウッド・パークへ出かけた。日差しが強いが日陰は涼しい。何かの宣伝だろうが,青空にジェット機が文字をいくつも書いていたり,プロペラ機が横断幕を引っ張りながら飛んでいたりと,日本ではあまり見られない光景に子供も大人も驚いていた。公園でリスを見かけた話をするとリスを一目見ようと探索するが,さすがに暑くてどこかにじっとしていたようだ。みかけることはできなかった。

 この暑さの中でも活動しているのは,なんと人間ばかりである。バスケットコートでは,ピックアップゲームをしているし,芝生の上では7人対7人でアメリカンフットボールとバスケットボールのドリブルなしとフリスビーを組み合わせたようなゲームが展開されていた。不思議なのは,年齢がまちまちで20代から50代ぐらいまでの大の大人が汗だくになってゲームに熱中していることである。まず,日本では草野球以外に見かけない光景だろう。運動量は草野球よりはるかにある。上半身裸でやっているのだが,こちらの人はみんな結構よい体つきをしている。運動することが生活の一部になっている感じだ。


注1)留学生や研究生が海外からやってきて、何かの事故や病気で死んだとき、その遺体を母国へ返送するための保険に加入しなければならない。その際にUCLA関係者のサインが必要なのであった。

注2)ジム・ハリックコーチとの事前のコンタクトは、手紙によるやりとりだけであった。若手研究員派遣の場合、行けるかどうか分からない段階(選考の段階)で、事前にインビテーションレターを必要とする。私の場合、当初「行けないだろう」と思っていたので、UCLAの図書館からインビテーションレターをもらっていた。ところが、突然行けることになり、あわててジム・ハリックコーチにお願いすることにしたのである。アメリカのバスケットボールのレベルを考えたとき、本当は大学ではなく高等学校レベルのコーチングを勉強した方がよいと考えていた。しかし、文部省による在外研究員派遣事業の場合、受け入れ先が研究機関(すなわち大学や研究所)でないといけなかったため、まずはUCLAを足がかりにして周辺の高等学校などへ調査対象を広げていこうと甘く考えていたのである。そんなわけでUCLAの状況を把握し、ジム・ハリックコーチと直接出会ってから、具体的な調査・研究計画を練り上げていくつもりであった。ところが、実際には、11/5の事件を契機にそれどころの騒ぎではなくなってしまったのだが・・・。