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闘争本能(10/23/1996水)


 今日の練習もほぼいつも通りであったが,1−1−3の総合練習も加わり徐々にチームプレイが要求されるようになってきた。ところが,3対3や4対4や5対5になると,選手たちはそれまでのドリルをすっかりと忘れてしまって,とにかく一人一人が激しく争うのである。もうほとんど喧嘩腰で,黙ってやらせていたら全部ファールに違いない。こういう雰囲気が今の日本には欠けているのだと思った。

 この国ではとにかく全てが戦いなのである。みんなが自分を主張することで戦っている。そうしないとはい上がっていけないのである。日本は戦後,争うということを失い,代わりに「人の役にたつことの美徳感と人のために犠牲になる」ことが強調されてきたのかも知れない。しかし,本来人間が持っている闘争本能をどこかで発散させる場がなくては,ストレスが貯まる一方である。スポーツの場面で一定のルールにしたがって争うということは,人と人が本当に深いところで交流することでもあり,ゲームが終わればみんなお互いを讃え合える。そういう雰囲気が今の日本にはなくなってしまった。みんなが少しずつ少しずつ我慢して人と接しているので,オウム事件のようにゆがんだ形で爆発してしまうのではないだろうか。

 今までアメリカで様々なフォーメーションが考案され,日本にもずいぶん紹介されている。日本のコーチたちは,その動き方を必死になって選手たちに指導し,選手たちも従順にその教えにしたがってきた。しかし,そもそもこの国のフォーメーションは,自分勝手でとにかく自分を主張することを第一に考えている選手たちをうまくまとめるためにあるのだ。日本のように人とうまく合わせることばかりで,自分を表に出さない選手たちにそのフォーメーションをいくら教えても,それだけでしかない。おそらくこちらの選手たちよりも見事にその動きを再現することができるだろうが,ディフェンスと戦うことは出来ないだろう。こんな当たり前のことでも,やはりこちらに来てみないとなかなか分からない。これで,だいぶフォーメーションの裏側にある意図やねらいが見えてきたような気がする。

 練習が終わった後で,ジム・ハリックコーチがボーダーラインにいた2人に何やら話しをして握手をしていた。もしかしたら,彼らはチームに残れないのかもしれない。