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ナチュラル・スポーツ(11/16/1996土)


 子どもが熱をだしたこともあって,今日はゆっくりと家にいることにした。思えば毎週土日にどこかへ出かけていたのだが,たまにはゆっくりすることも必要である。夕方,一家揃ってウェストウッド・パークへ出かけた。僕は本当に久しぶりにこの公園へ来た。砂漠地帯の南国のつもりでいたが,公園に植えられた木々は色づき,枯れ葉がたくさん落ちている。日は照っていたが,さすがに半袖では寒かった。

 バスケットコートでは大人から子供までいつものようにピックアップゲームをしている。その向こうの芝生では子供たちがサッカーをしていた。僕はその様子を遠くから眺めながら子どもたちとこども用のバスケットボールでキャッチボールをした。

 本当にこの国ではスポーツが定着している。小学校では日本の体育の授業のような授業はないのに,どうしてこんなにみんなスポーツを愛好しているのだろう。大の大人がいつまでたっても子供のような心を持ち合わせていて,本当に子供のようにスポーツを楽しんでいる。自己主張が強く,負けず嫌いで,子供相手のスポーツでも絶対に手を抜かず,子供以上に熱中し,勝負にこだわり,自分勝手に楽しんでいる。

 もしかしたら,日本の体育の授業は協調性を強調しすぎて人間が本来持っている闘争心を失わせているのかもしれない。スポーツは人間が持っているエネルギーを発散させて,さらにその許容量を高める働きをしている。歴史が物語っているように人間は無益な争いを繰り返しているが,スポーツは,一定のルールとマナーに従って一人一人が思い思いにエネルギーを発散する場を提供している。そのことによって一人一人が豊かな生活を送ることができるようになるし,その喜びや悔しさが生きる糧になるのである。

 ところが日本のスポーツは体育の授業の中で協調性を培うためのものとして利用されてきた。そのため,その反動として課外活動の運動部では勝利至上主義に基づいた指導が横行しているのかもしれない。

 この公園で子供から大人まで一緒になってスポーツをしている姿を見ているとなんだかナチュラルなスポーツを見ているような気がする。荒削りで決して美しいフォームでプレイしているわけではないが,次の瞬間にどんなことが起こるかわからないような期待感と人間が持っている本能的な部分を刺激されるような魅力がある。日本のスポーツは見た目が美しく礼儀正しくまさに「清く正しく美しく」という言葉が当てはまるような感じであった。それだけに次の瞬間に何が起こるかわからないというような期待感に欠け,ともすればちょっと見ただけで結果が分かってしまうようなケースばかりである。こちらのゲームはほんのちょっと目を離したすきに何かを見逃してしまうようなゲームが多い。たとえフォームは乱れていてもちゃんとシュートを決める。また,ほんのちょっとしたことからまさに喧嘩が始まるかもしれないような,そんな緊張感に満ちている。日本のゲームはそういう緊張感もないし,いつもうまいチームが勝って,へたなチームが負けるのが当たり前になっている。こちらは本当に下手なチームでもたった一人なんだかわけの分からないすごい奴がいればそれで勝ってしまうのである。

 日本でももしかすると若い世代の感覚がこれに近づいているのかもしれない。