12月分に戻る 表紙に戻る

 

初のアウェイゲーム(12/22/1996日)


UCLAは初めてのアウェイ・ゲームにシカゴまで出かけ,昨日なんとイリノイ大学に負けてしまいました。これで間違いなくランキングがなくなるでしょう。それにしてもどうして同じことを繰り返して負けてしまうのでしょうか?ふつう若いコーチなら自分のスタイルが確立していないので,柔軟に対応するものだと思うのですが,どうも思いこみが激しいようです。これでますます憂鬱になってきました。

 

クリスマス休暇(12/23〜25/1996)


クリスマス休暇のため、練習なし。(この間、耳の痛みで病院通い)

 

練習中止(12/26/1996木)


 午後、病院へ通ってから、すぐにUCLAの練習に向かうが,何と練習は中止。

 夕方,公園に子供たちを連れて行き,ちょっとピックアップゲームに参加。夜A君から電話があって,明日練習との連絡。

 

シビアな一面


 アウェイから選手たちが帰ってきて初めての練習の日,早くコートに出てきたH.S選手に「アウェイでは何回練習をしたんだい?」と尋ねると何だかはっきりしない様子。なんと彼は遠征に一緒に出かけていないのである。14人のメンバーのうち遠征に連れていってもらったのは何と12名だけ。A君に詳しいことを尋ねるとマネージャーもヘッドともう一人の2名,A君は膝の検査でいかなかったらしいが,K君は自分でお金を出して遠征に付いていったらしい。てっきり,選手もマネージャーも学生コーチもみんなで出かけているのだとばかり思っていたら,意外や意外,本当に最低人員しか連れて行っていないのである。かなりのお金をチームがもたらしているはずであるが,こういう部分に関しては本当にビジネスの世界なんだと痛感させられた。

 

日米の教育観の違いと体育について


 大学改革に関しては,本当に茨城大学はまだましな方なんだと思います。ただ,ここアメリカにいると「日本の体育」そのものの存在がこれから危ないような気がしてなりません。

 こちらの小学校では本当に時々,着替えもしないで先生と子供たちがフットベースボールか何かをちょっとやって,それが体育らしいのです。また,体育の成績は,「休み時間に外で元気に遊んでいる」かどうかで決まります。つまり,小学校では体育の先生らしき人はいないし,日本のように跳び箱がとべないといけないとか,鉄棒ができないといけないとかいう雰囲気はありません。

 その替わりと言っては変ですが,子供たちはのびのびと育ちます。特に競争原理がゲームのルールの中にも反映されていて,よほどのことがない限り先生が口を出すような雰囲気はありません。たとえば,フットベースボールならピッチャーが決まっていないので,1球誰かが転がしたら,その次に返球されるボールを誰かがとってそれを見事奪い取った者が今度はピッチャーになるのです。だから強い奴がいつもピッチャーになります。また,キックしてホームランになると何度でもベースを回ります。回った回数だけ得点になります。だから強い奴は徹底的に遠くへ蹴ります。そしてそれを先生も子供たちも本当によく誉めます。

 また,「スター」と言って学校の中に児童保育所があるのですが,そこの若いスタッフ(大学生ぐらい)たちが子供たちと一緒に遊びます。その遊び方がまた徹底しているのです。どっちが子供だかわからないぐらい本気になって遊びます。また,特におもしろいのは子供たちは学年を越えて遊ぶくせに,ひどく負けていたり,おもしろくないとすぐに抜けてしまいます。抜けても誰も何も言いません。抜けた連中はすぐに次の遊びへと渡り歩くのです。とにかく,自分がやりたいことは徹底的にやるけれどもやりたくないことはやらないのです。

 UCLAの構内や公園では,スケートボードを朝から晩までやっている子供たちがいます。とにかくすごいのです。もちろん,バスケットボールならバスケットばっかりやっています。そしてこれまたすごいのです。

 こういう雰囲気が育つのは,価値観が多様化しているからだろうと思います。子供は一人一人みんな違っていてそれぞれ得意なものと不得意なものがあるんだという,考えて見ればあたりまえのことが人々の間に浸透している感じです。人種の坩堝ですから外見から明らかに一人一人違うわけです。だから違うのが当たり前なのです。そしてそれをお互いに認め合っている感じです。

 先生も大人も子供もよく誉めます。何か少しでもうまくできるとみんながそれを誉めるわけです。できないことを日本のお母さん方のように悲観したりする雰囲気はありません。また,できないことをむりにできるようにさせようという雰囲気もありません。例えば,駿がちょっと絵が上手だということになるとどこでどう知るのかわかりませんが,英語人のお母さんがうちのかみさんに「絵がじょうずですねぇ」と言うわけです。それが全然日本のように嫌みっぽかったり,ひがみっぽかったりすることがありません。

 結局,そういう雰囲気に支えられて子供たちは本当に夢いっぱいに育ちます。日本の子供たちのようにませた感じがありません。素直にのびのびと夢をはぐくみながら大人になり,はっきり言うと大人になっても夢を持ち続けている感じです。

 実際,自由競争というのはそういうことなのかも知れません。転職するのが当たり前。少しでもノウハウを蓄積すればすぐに独立。そして夢を追い続けて働くわけです。そして成功すれば徹底的に金持ちになって,働かなくても食べていけるようになって良い暮らしをしようとするわけです。また,そういうことが可能な社会の構造です。

 もちろん,一方で徹底的に貧しい人たちもいるわけですが,そういう人たちに対する配慮も日本より進んでいる感じです。僕らが通っている英会話教室も1ドルで勉強できますし,教会では食べ物を配っています。

 そういう雰囲気の中で一人一人自分の身体や健康に対する意識も自然に育っていくのでしょう。身体を鍛えるのは誰のためでもない自分のためなのです。そしてそれをやる人は徹底的にやります。別にやりたくない人に強制することはありません。ただ,みんながよく身体を鍛えるし,シェイプアップするのでそれが当たり前のような雰囲気ができあがっています。それをまた,支えるだけの施設や設備も整っていますが,当然それはニーズがあるからです。

 前にも書きましたが,こちらの学校は最低限のことしかしません。それ以上何かをしたければ必ずお金がかかります。スポーツにしろ,音楽にしろ,日本の塾と同じようにお金をかけなければ身に付きません。

 よくテレビで優勝した人たちにインタビューすると,なぜかこちらの人はみんな家族に感謝していると言いますよね。日本にいるときは,何だか不思議な感じがしていました。つまり,日本では学校の先生とかコーチに感謝するけれども両親にはあまり感謝することはないような気がするのです。だから,何だかマザコンなんじゃないかとか親ばかなんじゃないかとか思っていました。ところが,こちらに来てみると,それが当たり前のことなのだということが解ります。親が手をかけなければ,そこまで登りつめることはまずできません。何しろ16才まで送り迎えが義務づけられているのです。小さいときに親が学校からスポーツクラブまで送り迎えしなければ,子供たちは育たないのです。それが出来ない親は公園で自分で自分の子供に指導します。

 日本のように学校まかせになりようがないわけです。もちろん,こちらの親にもいろいろあって,全部ベビーシッターにまかせっきりというのもあります。また,お母さんが料理を作れるとは限りません。それも自由です。だから,家庭環境がよいか悪いかが子供に非常に影響します。そして,そういう家庭が集まる地域が限られていてそういうところは,ようするに怖いわけです。

 日本は教育水準をあげる代わりに家庭から子供たちを切り離し,子供たちの夢を奪ってきたのかも知れません。そして,貧富の差をなくす替わりに,人間が一人一人違うのだという当たり前のことをどこかに置き忘れてきてしまったのかも知れません。いじめや登校拒否の問題は,日本だから起こるのだという気がします。

 そういう学校で今まで行われてきた(今も行われている)整列・号令の体育が果たしてきた役割は非常に大きかったと思うのですが,今の日本の子供たちに本当に必要なことが何かを考えるとそのあり方や存在そのものを考え直してみる必要があるように思います。