吹っ切れた選手たち(1/5/1997日)
その後はあたりさわりなく,しかし,したたかにUCLAのチームと接しています。UCLAは優勝候補にあげられていながら,例の事件以降チーム状態が悪く3敗し,今ではランキングもなくなってしまいました。それでも今年に入ってパック10が始まり今のところ2戦2勝です。
例の事件以降,選手たちは若い新ヘッドコーチに気を使いながらプレイしていましたが,今年に入ってやっと少し抜けてきた感じです。このまま,自分たちが持っている本来の力をうまくかみ合わせながら,のびのびとプレイすれば必ずよい結果が得られると思います。そうなるようにいつも願いながら練習と試合を見守っている毎日です。
NCAAのルールの見張り番?
NCAAのオペレーティング・マニュアルは,全部で309ページにもなります。各種目毎の規定部分はプレイと練習の期間に関するもので,大半はコーチ雇用,アマチュアリズム,リクルート,学業,財政,賞に関する規定です。日本のように共通の道徳観や教育が施されるわけではなく,人種も宗教も教育観も全く異なった人たちが集まっている社会ですから,どうしても規則が細かくならざるを得ないのでしょう。
コーチたちは「こんなのくそくらえ」と思っている反面,違反すると首を切られるので従わざるを得ないようです。規則自体に関する関心もさることながら,僕が一番不思議なのは,これだけ細かい規則をいったい誰が見張っているのか?ということです。例えば10月15日の公式練習開始前は週8時間だけコンディショニングとストレングスのためのボールを使わない練習にコーチがついてもよいことになっています。しかし,本当に8時間なのかどうかを誰が判断するのか?ということなのです。僕が見る限りそれを見張ることができたのは,僕だけです。一応アドミニストレーターが報告書を提出しているらしいのですが,それが真実かどうかは誰も判断できないのではないかと思うのです。
ところが,例えば選手たちが勝手にピップアップゲームをしている(していることになっているが,実際にはやらせている)場にコーチはまず顔を出しません。コーチになぜ見ないのか?と尋ねたことがありますが,「首を切られる」と言っていました。しかし,それを見張ることができる人物は,どう考えても僕しかいないのです。確かにメディアの目が常にあることは事実です。しかし,メディアだって四六時中いるわけではないので,コーチが自分のトレーニングをしているふりをしてちょっと顔を出したって誰もわかりはしないはずです。しかし,コーチたちはそれをしようとはしません。つまり,それほど過去に規則違反で首になった事例がたくさんあるということだと思うのです。
今回のジム・ハリックコーチの解任事件は,いろいろなことを示唆しています。「規則は細かい。しかし,それを見張っている人はいない。」ということは,破ろうと思えば破れるし,実際,ほとんどの大学のコーチが規則違反ぎりぎりか少し越えたところで活動している。それを公式に見張っている人がいないのだから,難癖を付けようと思えばいつでもつけられる。つまり,その気になればいつでも首を切れる。ということです。
日本のシステムづくり
日本の選手のリクルートの現状は,たしかに無茶苦茶です。だからといってNCAAと同じ規則を作ればよいかというと,すぐにそう結論づけるわけにはいきません。何しろ,文化も社会構造も考え方もみんな異なっているからです。それなら,日本の現状にふさわしい規則を作ればいいじゃないかとも思いますが,今度はその運用が問題になるわけです。正直なところ,今規則を日本で作っても悪用されるのがおちでしょう。つまり,適切に運用できるようにするシステムが作れないと思うのです。
日本は会社組織に代表されるように,世界がびっくりするほど強固な組織が作られてきました。しかし,このNCAAのように詳細な規則でしばられている組織ではなかったと思います。どちらかというと組織が個人を位置づけるのではなく,各個人が勝手に組織のなかに位置づきたいから強力な組織ができあがってきたと思うのです。つまり,「個の確立」よりも「集団帰属意識」の方が優先されてきたわけです。裏を返せば単なる村意識の固まりであり,その集団の利益は考えるけれどもその枠を越えた部分のことは,一切考えられなかったということでしょう。
現在は,そういう集団が高齢化とともにだんだん重たくなってきて,若者にとって何のメリットもなくなってきたために,「個の確立」ならず「個の閉鎖」が進んでしまっているように思います。同時にそうでありながら,相変わらず「集団帰属意識」だけは捨てられないというのが現状でしょう。なんだか冷たい感じですね。
過渡期
今,日本は世界から揺さぶられて,過渡期にあるように思います。僕は,村の生活を守るために守り続けてきた風習も大事だと思いますし,同時に全体をゆるやかにつつむようなシステムづくりも大切だと思っています。ただ,それがどういう風に実現するのかは全くわかりません。ただ,ハッキリ言えることは,アメリカのように何でも訴訟を起こして解決してしまうようなドライな社会よりも,人と人とがふれあいながらものごとを進めていける社会の方がいいなぁということです。日本のエリートたちは,かなりドライになってきているように思うので,もう少し湿り気があって暖かみのある,つまり本来の日本の気候風土にふさわしいシステムづくりが望まれます。
いつも通りの練習(1/6/1997月)
練習にちょっと遅れて着いたが,いつも通りの練習であった。練習が終わった後,ウッデン・センターへ行き久しぶりにステップマシンをやり1試合だけピックアップゲームをした。UCLAは授業がはじまったらしく大勢の学生でにぎわっていた。
いつもの僕の練習(1/7/1997火)
午後,練習前に外のグランドの観客席の階段の上り下りをし,練習,リフティングを見学した。