1月分に戻る 表紙に戻る

 

日米文化の違い(1/9/1997木)


 午後5時30分からテレビでスタンフォード戦が放映されており,僕が帰った6時30分にはちょうどハーフタイムであった。予感的中,前半ですでに31点も離されて負けていた。僕は,テレビの前に正座をして後半を見つめていた。まだ,10分もあるというのになぜかメンバーを落としてしまい,どんどん離されるばかり。リーグ戦でホームコートとアウェイコートの2回戦制なのだから,少しでも得点差を縮めておかなければならないと思うのだが,いったいSコーチは何を考えているのだろう。選手もコーチも顔色を失っていた。

 

立場

 こちらの大学は,アスレティック・デパートメントがファカルティとは全く別組織になっており,私はその中のバスケットボール・オフィスに出入りしています。ただ,オフィスといってもヘッドコーチの部屋とミーティングルーム,ビデオルームがあって,他は共通のフロアーに会社のオフィスのようにしきりがあるというものです。そこにはバスケットボール関係で6名(ヘッドコーチ1名,アシスタントコーチ3名,アドミニストレーター1人,秘書1人)が働いています。コーチたちはもちろん授業があるわけでもなく,ただただバスケットボールチームの練習,試合,スカウティング,リクルーティングをしています。このコーチ陣は毎年構成が変わりますし,昨年10月に私が巻き込まれたようにシーズンが始まってからでも,突然解雇されたりします。実質アドミニストレーターと秘書の方だけが,長年仕事をして,ほとんどの雑用を一手に引き受けている感じです。

 何しろこちらの大学スポーツは完全にビジネスになってしまっているので,システムが全く日本とは異なります。とにかくUCLAでは,アメリカンフットボールと男子バスケットボールが大学の財源になっているので,非常にシビアな世界です。ですから,私の立場もいわゆる大学の教官としてではなく,日本のコーチとしてこちらのコーチに練習と試合を見させてもらっているという形です。つまり,大学のアスレティック・デパートメントに雇われているバスケットボールコーチのところへ勉強に来ていることになっているので,ファカルティとは全く関係がなく,研究室とは無縁の世界なのです。

 

脱研究室生活

 私自身も研究室にこもるつもりは全くなく,いろんな人と接したいと思っていたのでかえって好都合です。また,こちらのコーチ陣たちも余裕がないので私にかまっていられないというのが正直なところです。ですから,私は毎日の練習と試合を見学する以外はどこにいようと自由です。

 そんなわけで実は妻と交替で午前中に英会話の学校に通っています(片一方は育児担当です)。こちらの英会話教室はたったの1ドル支払っただけで,なんと週4日午前中3時間,半年間も教室に通えるのです。私たちは交替で出ているので週2日ですが,世界各国からさまざまな事情でここロサンゼルスに集まってきた英語の苦手な人たち(若い人からお年寄りまでさまざまです)が集まっているので,いろんな国の事情やら習慣やらを知ることができて有意義です。また,練習の前後には,一般の学生や教職員とバスケットボールのゲームをして楽しんでいます。ですから,日本にいたときより規則正しく生活している感じです。

 

人種のるつぼ

 子供たちもこちらのエレメンタリースクール,キンダーガーテン,プレスクールにそれぞれ通わせ,最近は「オー・マイ・ゴーシュ」だの「ルック・アット・ディス!」だの「オー・メーン」だのと英語が飛び出すようになりました。それなりにとけ込んでいるようです。

 バスケットボールもさることながら,ここロサンゼルスは人種のるつぼと呼ばれるだけあって,何となく世界観が変わってきたように思います。当たり前すぎて,お恥ずかしいのですが,人間は一人一人みんな違うんだということをあらためて学びました。そして,その上で誰とでも仲良くしていかなくてはいけないんだなぁと実感しています。そういう意味ではこちらの挨拶をはじめとする様々な日常の習慣には,感心させられることが多いのですが,日本の習慣や大切にしてきたこと(礼をつくすことなど)のすばらしさも同時に再認識しています。

 

任期制について

 任期制について少し調べてみようと思いますが,正直なところアメリカの習慣と日本の現状はあまりにも違いすぎて参考にならないように思います。

 この国では仕事に対してお金を払います。日本では人にお金を払います。ですから日本では安心して働いていられるし,安定した生活が保証されてきました。そして,会社人間をたくさん作り出して,日本は世界一の高度経済成長を成し遂げたわけです。しかし,悲しいことに人は年をとります。おまけに日本の食習慣は本当に健康的なので,みんな長生きするわけです。ですから現在の日本では人件費がかさみ,経済構造自体が破綻しようとしています。若者が職につけなくなってきましたし,医療費が国家予算を圧迫するわけです。

 今になって,あわてて規制緩和や公務員の定員削減,任期制の導入が騒がれていますが,僕はそう簡単にうまくいくとは思えません。つまり,仕事に対してお金を払うということは,当然,貧富の差を生み出すことになるからです。

 ここアメリカでは本当に信じられないぐらい公立の学校の施設設備が貧弱です。最近わかってきたことですが,ようするに公立では最低限のところだけしか受け持ちません。それ以上の教育を受けさせたかったらお金を出さなければいけないのです。つまり,そこで親が子供に投資をすれば子供のビジネスチャンスが広がるし,子供に投資しなければそれなりの職にしかつけないということなのです。余談ですが,ですから貧しい家庭の子供たちには直接お父さんが教育します。つまり,それがスポーツ(一番お金がかからなくて手頃なのがバスケットボール)の指導なのです。バスケットボールがうまくなれば大学へも行けて,運が良ければ億万長者になれるわけです。

 さて,年齢には関係なく、ある仕事に対して支払う金額が決まっているわけですから,収支が合いさえすればいつまでもそのシステムは続くわけです。需要と供給のバランスがとれさえすれば,いつでもどこでもだれでもビジネスができるわけです。

 当然,会社が一生を面倒みてくれるわけではないので,会社人間を生み出すはずもなく,こちらの人はたくさんお金を得て,充実した生活を送るためにビジネスをします。ですから,少しでもペイが良ければそこへ転職するのが当たり前ですし,サラリーマンでも働きがよければ当然給料が良くなるわけです。

 日本でも僕が小学校の頃までは「肉屋の息子は肉屋を継げばいいんだ」というような感覚がありましたが,猫も杓子も勉強勉強と言い始めた頃から,医者だの弁護士だの公務員だの一流企業だのが目的になってしまって,みんなが同じ価値観(=学歴)にとらわれてしまいました。また,それを助長するような日本のシステムだったわけです。おかげで教育水準が上がり,読み書きそろばんは一通りみんなできるし,みんなが中流の生活ができるようになりました。

 任期制の導入ということは,ようするに働きに対してペイしようということだと思います。こちらの大学では,それぞれの大学がビジネスを行っているので,それぞれの大学の理想や理念によってペイの価値観が異なります。ですから,ある大学ではスポーツに力を入れ,ある大学では教育や研究に力を入れるわけです。たいていの場合,スポーツが一番手っ取り早くお金を得られて,大学のイメージ・アップにつながるので,今では学問で名高い大学でもスポーツが盛んになってきました。

 日本のように初等・中等教育の全国の教科書が検定され,全国の高等教育機関をあるお役所が予算措置で操りたいと思っている限り,任期制を導入しても健全な運用は無理だと思います。つまり,国家予算に頼っている限り,生かさず殺さずの状況が続くわけですし,結局中央を向いている人が有利になるわけです。

 本当に日本の就職難が続き価値観が多様化して,貧富の差が大きくなることを覚悟できるようだったら,任期制は各大学の独立採算性と抱き合わせて導入されるべきでしょう。当然大学はビジネスをせざるを得なくなります。各大学の理念に基づいて収支決算の見合うところに人員が配置されるようになるでしょうし,大学の先生は自分の理想とそれに対してペイしてくれる大学を探し回るようになるはずです。