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成功のピラミッド(1/17/1997金)


写真撮影

 午前中は,メール書き。午後の練習に早めに出かけ,ポーリー・パビリオンを走り始めた。予想どおり3時30分から練習は始まらず,4時になっても誰もロッカールームから出てこない。コート上では写真撮影の準備が始まっていた。どうやらチーム写真をとるつもりらしい。4時20分頃に選手はユニフォーム,スタッフは揃いのジャケットを来て出てきた。写真撮影でおもしろかったのは,何と撮影が始まる直前に後ろで何人かの選手が腕立て伏せをして筋肉に刺激を与えるのである。少しでも筋肉もりもりに見せようというのである。さらにおもしろいのは「ワン・ツー」のかけ声でシャッターを切るのだが,かけ声に合わせて選手たち全員が思い切り息を大きくすって胸を大きく見せるのである。中には背伸びする選手もいる。シャッターが降りるとみんな一気に笑い出す。こうしたことをざっと20回ぐらい繰り返すのである。こうしてなんとなく朗らかな感じの集合写真ができあがるんだということが分かった。

成功のピラミッド

 その後,選手たちがロッカールームへ入っていった直後,Dさんがジョン・ウッデンさんを連れてきた。ポーリー・パビリオンを走っている時,Dさんがきちっとした格好をしていたのを見ていたので,今日は何かあるなぁと思っていたが,こういうことであったのか。そのままロッカールームへ向かっていったので,きっと選手たちに何か話をしに言ったのだろう。ウッデンさんは30分ほどして出てきたので,近くへ行ってご挨拶をした。日本から勉強に来ていること,大学時代の先生が20年ぐらい前にこちらへやってきたH先生であること,H先生は今故郷で暮らしていらっしゃることなどを話したら,H先生のことを覚えているばかりか時々電話で話をするとのことであった。手に持っていた成功のピラミッドのシートを手渡された。

 マネージャーが2人で1対1をしていたのでしばらくそれを見ていた。選手たちはまだ出てこない。勝った一人が僕を1対1に誘うので,2ゲームやった。2ゲームとも勝つことができたが,何と1対1をやっている時に選手たちが着替えて帰り始めた。今日は練習がないようである。一人だけシューティングをしていた。

 

激しい戦い


 その後ウッデン・センターへ行きピックアップゲームをやった。5人対5人のゲームなのだが,そのうちの2人が熱くなり,ほとんど2人でやりあう場面ばかりになってしまった。ほとんど喧嘩腰である。例えば僕がそのうちの1人のシュートカットに飛んで綺麗にカットした時も,ファールをされたと叫ぶ。すると僕のチームのその相手が今のはファールじゃないと言う。結局,何が起こっても2人で口論が始まってしまうのである。僕のディフェンスをしていた人は,シーっというそぶりを見せ,僕によけいな口出しをしない方がよいという。こういう場面は,日本ではなかなかお目にかかれないが,これが戦いなのだろう。

 

チーム状況


 ここUCLAの中にあって,唯一落ち着いたムードにならないのが,バスケットボールチームです。先週スタンフォード大へ遠征に行って,何と48点差というUCLAバスケットボール史上最悪の得点差で負けるという記録を作ってしまいました。一応パック10というカンファレンスの試合に入ってからはその試合しか負けていないので,スタンフォードに次いで2位につけていますが,いずれの試合も選手たちの個人的な踏ん張りで勝っているような感じです。昨夜のゲームもベンチワークには全く余裕がなく,ゲームの流れや選手たちの心の動きや身体の状態を一切無視した交替で,びっくりしてしまいました。一般の人が見ていても不思議に思う場面がたくさんあったので,おそらく若いヘッドコーチの頭の中は完全に混乱していたのだと思います。

 

新しい友人


 僕は,最近ピックアップゲームに来ている人の中で45才と35才の社会人の人とよく話をするようになりました。シンガポールから子供の時にやってきたという人と中国から8年前にやってきたという人です。学生と違って大学の様子やアメリカの風習とアジアの風習の違いなどをよく心得ていていろいろとためになる話が聞けます。ネイティブ・スピーカーの話は,スラングばっかりでほとんど聞き取れないのですが,彼らの話は半分以上理解できます。

 

強さと賢さ


 彼らの話を聞いたり,今まで考えさせられてきたことから,何となく見えてきたことがあります。それは,ここアメリカでは「強くあること」が価値観の大半を占めているということです。日本ではどちらかというと「賢くあること」のような気がします。ですから日本では猫も杓子もみんな勉強勉強ですが,こちらはそれだけではありません。とにかく人と違った能力を身につければ,それが力になることを心得ています。こちらの「賢さ」の尺度は「いかに強く見せるか,いかにしたら強くなれるか」という部分で作用しているようです。日本は何となく知識の量であったり,ずる賢さであったり,いかに人とうまくやっていくかであったりするような気がします。

 ですから,彼らはまず自分の身体を強くしたいと思います。女性も美しさが強さにつながることを心得ています。アパート内のあちこちにでっかい鏡があるのも,常に自分が強く美しく見えるかどうかを確かめるためにあるのだと思います。また,もし身体に恵まれなかったらその部分はあきらめたとしても,その次はお金を得ることを考えます。お金が力なのです。そして,お金のある人は何でもかんでも訴訟を起こして戦います。たとえ自分に非があったとしても,それを是としてしまう力が美徳なのです。

 ピックアップゲームをしていても,ファールだとかファールじゃないとかみんな喧嘩腰です。僕は比較的にこやかにプレイしていますが,中国からやってきた僕と同じ年の彼が,それではいけないと忠告してくれました。いつも怒っているようにしていれば,相手があきらめるというのです。つまり,自分の主張を通す手段として怒っているように見せろというわけです。アメリカの外交政策に似ていますね。つまり,これだけいろんな人がピップアップゲームに来るのは自分が強いんだぞということを確かめるためにやってくるわけです。そしてその欲求が満たされることが楽しさであり,その欲求が満たされなければ楽しくないのです。ですからみんな勝てそうなところでしかプレイしないし,勝つために強い人間をピックアップするわけです。もし,負けたとしても自分がシュートを決めて,局面で強さを見せつけられればそれでも満足します。だから,ボールをもったらみんなシュートします。

 UCLAのチームのスタートの選手1人と控えの選手2人がピックアップゲームにやってきたことがあります。彼ら3人と比較的うまい2人がチームを作ってしまい,何度か勝つと他のみんなはそこでプレイをしないで眺めていたり,他のところへ散っていってしまいます。要するにそこで戦っても相手が強すぎて自分の強さを見せつけられないので,戦わないわけです。

 僕などは,とにかくゲームができればいいやとか,勝っても負けても一生懸命やればいいやとかいう感じで,その過程を楽しんでいますが,彼らにとってそんなことは美徳でも何でもありません。つまり,勝たなければ,そして自分が強いんだということが確かめられなければ意味がないのです。ですから負けると異常なほどに悔しがります。

 日本では,少なくとも僕の世代からは,直接的な争いを避けて良い子(=賢い子)になりなさいと小さな時から育てられてきました。この国では強くなりなさいと育てているような気がします。だから人と違った長所があるとそれを少しでも伸ばそうとしますし,そういう部分に必ず賞を与えます。日本のようにあれもこれもみんなできる。でも,人並みというのでは,いつまでたっても賞がもらえないのです。こちらではほとんど「あれはダメ,これはダメ」とは言いません。とにかく誉めて育てるのです。欠点はほったらかしにしておいて長所を伸ばすわけです。それが強くなるために必要なのです。日本では長所を伸ばすことより,欠点をなくそうと努めます。人並みであることが,人とうまくやっていくために必要で,それが賢く人と争わないで活きていくために必要なのです。ですから,小さい時から叱って育てます。

 こちらでは,大人になっても男も女もみんな心のどこかで強くありたいと思っているようです。そのために,勉強あり,スポーツあり,転職ありなわけです。

 スポーツが強さを競うものであることとお金が強さの象徴であることが結びついた時点で,この国のスポーツがビッグ・ビジネスになるのは当然です。日本でスポーツが今一つ盛り上がらないのは,「強くあること」が「賢くあること」よりも低く位置づけられているからでしょう。しかし,人間である以前に動物である以上日本人といえどもどこかで強さに対するあこがれみたいなものがあるはずです。ところが常に賢くならなければならない(=知識の量を増やさなければならない)というストレスの中で,表面的には人と争ってはいけないと育てられていますから,当然,水面下で弱いものいじめをしてしまうわけです。この国では弱いものいじめをしても誰も強いとは認めてくれませんから,そんなことが起ころうはずもありません。

 一昨日UCLAのバスケットボールチームがホームレスの人たちに使い古したTシャツやバッシューをあげて一緒に話をしたりするためにダウンタウンへ出かけていきました。もちろん,美しい話にするために,選手個人の車にみんなが分乗してでかけるわけです。毎年やっているのか?と尋ねると「今年はじめてだ」と言うので,若いヘッドコーチに誰かが吹き込んで行ったのだと思います。決して悪いことだとは思いませんが,選手たちの発案でもないだろうし,選手たちは自分の車を出すことに疑問を感じているようです。マネージャーが僕に何をしに行くのかを説明してくれているときに「そうすれば,よく見られるだろう?」というニュアンスでウィンクをしました。つまり,こういうことが美徳なのです。つまり,強いものは弱いものを助けるものなのです。プロの選手たちが,クリスマスに恵まれない子供たちにおもちゃをたくさん買い与えるシーンがテレビで放映されるのも,強さの象徴です。こういう話にこちらの人たちは心うたれるわけです。ですから,湾岸戦争でもベトナム戦争でも弱いものを助けるために戦うのだという大義名分が必要なのです。ようするに単純明快です。単純明快でないとこれだけたくさんの人種が集まっている社会がうまくいこうはずがありません。

 

日本社会のこれから


 何でもかんでも強くあればよい,「金の切れ目が縁の切れ目」のようなドライな社会を見ていると,強さやお金とは無関係に独特な道徳観がまだ少し残っている(はずの)日本は,結構捨てたものではないなぁと思います。ところが,日本は経済大国になって海外の人からは,そうは見られません。当然お金のことばかり考えてずる賢い連中と思われていますし(実際そうなのかもしれない),日本人独特の道徳観は理解されません。海外からは圧力がかけられるし,日本国内では教育の中から道徳観が抜け落ちてしまっていじめ問題が彷彿としています。いわゆるエリート官僚たちは自分が知識の量で勝ち抜いてきたために,日本の気候風土と歴史を無視してあらゆる部分で競争原理を持ち込もうとしています。

 あらゆる意味で過渡期なのだと思いますが,原爆を落とされた唯一の国として独特の価値観をもって歩んできた日本のよい部分と国際社会のもつ単純明快なシステムとをうまく融合させていく必要があるように思います。

 

研究計画


 今回の研究計画書に「日米のバスケットボールのとらえ方と構造理解の食い違い,さらにその違いの文化的背景を明らかにして,文化財としてのバスケットボールの本質を明らかにする」と書きましたが,いろんなことが総合されてなんとなく少しずつ見えてきたように思います。その意味では,11月6日の解任事件やその後のUCLAのチームの混乱も僕にとっては好都合なのだろうと思います。考えて見ればあたりまえのことなのですが,実際こちらで生活してみないとなかなか分からない部分でもあるように思います。

 アメリカはとてつもなく広いので,日本に帰って上述のような単純な話をすると,アメリカの一部分しか見ていないのに,話が大きすぎると怒られそうですね。でも,少なくとも今はこんなことを感じていますし,これからもできるだけいろんなことを感じながら生活しようと思います。できるだけ身体を開いておく必要がありますねぇ。

 

ランキング


 ご指摘の通り各カンファレンスの試合が始まりました。パック10でUCLAは現在4勝1敗で2位につけていますが,その1敗がすごい内容です。スタンフォードを相手に109−61というUCLA史上初の得失点差(48点)で,負けてしまったのです。25位まで全米のランキングが投票で発表されますが,1票でも入るとその他のリストに載ります。シーズン開幕前に全米ベスト4にランキングされていたUCLAは,シーズン開幕からいきなり2桁のランキングになり,しばらく24位を保った後,ランキング外の欄外にリストアップされ,ついにその試合の後,1票も入らなくなってしまいました(CNNコーチの投票の方。AP通信のメディア投票の方は,2票だけ入っている)。それほど試合内容(ベンチワーク)がひどいということです。それでも,選手たちの動物的なカンと運動能力で他の試合は何とか勝てているので,僕は本当にうらやましい限りです。

 

東西海岸の違い


 最近おぼろげながら感じていることは,どうやら西海岸と東海岸ではずいぶん気候風土が違い,それがものの考え方やとらえ方へも影響しているようだということです。そのあたりのことが,当然コーチングスタイルにも現れているように感じます。日本でも関東と関西で違いがあるのと同じことですからあたりまえといえば当たり前ですが,日本にいるとその当たり前のことがわからないまま,いろんなことを鵜呑みにしていたように思います。

 

グローバルな見方


 チームとの関わりばかりでなく,街の人たちとのピックアップゲームで少しずついろんな人と話をする機会が増えてきました。特に海外から移住してきた人の話は,こちらの人のものの考え方やとらえ方を理解するのに役立つばかりか,アジアや日本のことを理解するのにも助かります。いろんなことが少しずつ感じられるようになってきて,日米のバスケットボールの違いの裏側に潜む文化的な背景が,ちょっとだけ見えてきているような気がします。その意味では,さまざまな事件に巻き込まれてかえってよい経験になっているのかもしれません。これからもなるべくいろんなことを感じられるようにしたいと思います。