vsデューク大・タレントとデザインの関係(2/23/1997日)
今日は,デュークとの一戦である。今日の試合はデュークを徹底的に見てみよう。
・金曜日の練習が終わり自転車に乗って帰る途中,突然「これ以上UCLAの練習を見ていてもどうにもならない」と感じました。なぜだか自分でもよくわからないのですが,あと3ヶ月で何かまとめなければいけないというプレッシャーを感じ続けた結果だと思います。UCLAでは練習と試合を見ても良いというだけで,それ以上の何もありません。例えばミーティングとかビデオを見てのスカウティングなどにも参加しません。チーム事情があまりにも複雑なのでなるべくチームを刺激することのないよう気を使いながら着かず離れず見守ってきました。しかし,そんなことに惑わされて肝心の何かを忘れているような気がしたのかもしれません。または,このまま同じ状態で接していてもこれ以上得るところがないと感じたのかもしれません。
いずれにしてもメディアに惑わされてはいけないと思いました。つまり,ランキングがどうとか,コーチがどうなったかとか,選手がNBA入りするのではないかとかです。確かに,ジム・ハリックコーチの解任事件以降,こちらのスポーツ事情を把握する上で非常に好都合な状況に恵まれました。そのことで,普通の人が学ぶ以上にこちらの大学スポーツの複雑さや人々のものごとに対するとらえ方などを否応なしに感じさせられてきました。それは,大変自分にとってプラスのことでした。そのことで,日本のこともよく見えるようになってきました。
しかし,よく考えてみるとそんなことは,大なり小なりどこの世界でもあることで,僕が学ばなければならないことはその一連の事件の顛末ではないのです。そういう事件がなかったら,僕はもう少し違う目でチームを見ていたに違いありません。ところが,一連の騒動でどちらかというとコーチや選手たちの動向などに注意が向けられてしまい,見方が狭くなっていたように思います。
そこで,土曜日の練習ではいつもよりちょっと離れたところから練習の様子を見ていました。するとふと選手のかかとの上がり具合が気になりました。そこで床に座り込んで練習の間中ずっと選手のかかとを見続けていたら,いろんなことを発見したのです。
これは,もっと違う目でこのチームを見ていないと損すると思いました。自分のチームを見ているときはもっと低くもっと深く選手を見ていたように思います。ところがここでは例の事件以降コーチングのことや選手とコーチの関係などに注意が向いてしまい,それに惑わされていたように思います。それも重要なことですが,それだけではダメなのです。
土曜日の練習が終わった直後にデュークがやってきました。練習は非公開なのですが,最初の方はメディアのインタビューがあるのでメディアにまぎれてちょっと様子をみていました。すると,カンサスの時と同じように鍛えられたチームであることがすぐに分かりました。選手もスタッフも自分のやるべきことを心得ていてテキパキと取り組む姿勢は,非常に好感がもてました。残念ながらメディアのインタビューが終わると同時に僕も会場から外へ出なければなりませんでしたが,今の僕には十分な刺激でした。
今日の試合は,思い切ってデュークを徹底的に見ていようと思いながら会場へ向かいました。僕はウィルコールでチケットを受け取るのですが,今日の試合は何と2階席でした。そのことがかえって幸いし,いつもと全く違った見方が出来たのです。
デュークは本当によく鍛えられたチームです。ゲーム全体の展開にコーチKの意図を感じました。ゲームの前半は3ポイントを多様し,相手が外へ出てくるようになったらドライブを織り交ぜ,前半ちょっと離されてもディフェンスを変えなかったのに,後半は要所でゾーンやプレスを効果的に使っていました。また,タイムアウトの後の1プレイは必ず非常にアグレッシブなプレイをさせたり,バックコートのインバウンズの時でもプレスされる場合を想定してラインを作っていたり,何よりもタレントのない分一人一人の得意なプレイがうまく展開されるように作られたシステムは,本当に学ぶべき点がたくさんありました。また相手チームに先行されてちょっと離されてもベンチも選手もあわてることなく「やるべきことをやればいいんだ」という雰囲気が伝わってきました。最後の競り合いの時でも,無理に勝ちに走るのではなく,どちらに転んでもチームにちゃんと課題を残して終われるようにしていました。そして,何よりも冷静にUCLAの一人一人の選手たちを観察していて,「この次に対戦する時は負けないよ」と言わんばかりでした。試合の結果は,ご存じの通りでUCLAが勝ちましたが,いつもと違う見方をしていて僕にとっては本当に勉強になった一戦でした。
UCLAはというと4年生のCD選手がどうやら「このままではいけない」と気づき始めたようで,普段練習でやっている動きとはほとんど無関係に一人一人が攻めていました。何しろ6人が6人みんな高い得点能力を持っているのですから,ディフェンスとしては本当に的が絞れなくて大変です。UCLAの選手たちは,ほとんど本能のおもむくままにゲームをしていました。ただ,今日のゲームで興味深かったことは,残り30秒を切るまでスティーブ・ラビンコーチが自分からタイムアウトをとらなかったことです。とらなかったのか,とれなかったのか判断できませんが,いつもならタイムアウトの後に重たくなるはずの攻撃が重たくならずに済みました。今までの経験から,彼も少しずつ気づき始めているのかもしれません。
彼は相変わらず練習中に「That’s Basketball!」と言います。その時のプレイはたいていパスが次々と回ってノーマークでシュートが打てた時です。逆に一人でドリブルで突っ込んでいってミスするとひどく苛立ちます。そして必ずドリブルペネトレイトの後は両足でジャンプストップするように強調します。そこからシュートも打てるし,パスも出来るようにさせようとしています。ですから,彼のデザインは非常にパッシングゲームのイメージが強いもののようです。一昔前に流行りましたが,その弊害はずばり選手がボールを持ってもリングを見なくなることです。常にパスする相手を探すようになり,自分とリングが直結しなくなります。ですから,タイムアウトの後はいつもパスばかり回そうとしてシュートがなかなか打てませんでした。
練習の時は,あれもこれもそれもできる,だからこのオフェンスは素晴らしいんだと言うので,肝心の時にいったい誰にどこでプレイさせようとしているのか分からなくなっています。今日の試合などは,選手が自分でディフェンスの付きかたに応じて動いていたので,普段練習している動きで得点したのは1回か2回です。もし,彼が試合の時は選手たちが勝手にやるだろうということを予想して,相手のスカウトの目をごまかすために,練習であの動きをひたすらやらせているのなら,非常にすばらしいコーチングだと言えます。ただ,その場合完全にタレントに頼っていることになってしまいます。
タレントとデザインの話しですが,まったくその通りで「デザインの中に創造性の入る余地を作っておけば両立する」と思います。パット・ライリーさんがどういう意味でデザイン,様式,パターン,システムと言ったのかわかりませんが,僕の意味しているところは,「コーチが選手をある型にはめ込むこと,つまり押しつけ」という極端な意味でした。また「タレント」に依存するということは,コーチングが0という意味です。実際はそれらの両極端が微妙な緊張関係にありながら,原点(0,0)からどれくらい離れられるかがチーム力となって表れるわけです。ちょっと説明不十分でしたが,ただ両者の関係が反比例曲線を描いているということで,その反比例曲線はX軸(才能)にもY軸(押しつけ)にも接することは実際の人間の活動ではあり得ません。重要なのはその曲線から極端にはずれてしまうと歪みが生じるということなのです。
原点(0,0)からどれだけ離れられるかは,コーチと選手の努力だと思います。それぞれのチームにはそれぞれ独自の曲線があって(タレント×デザイン=その時のチーム力=一定),実際にはその曲線の上をあちらこちらに動きながら活動しています。ある時はタレントに依存する部分が大きくなり,ある時はシステムに依存する部分が大きくなったりします。いろんなケースを体験し,少しずつ少しずつその曲線自体が原点から離れていくように努力(+α)しなければなりません。どちらかが先に突っ走っても歪みが生じるだけです。もっと具体的に言うとタレントを求めて現ナマが動き,そのタレントに依存して勝利を収めたコーチはもっとよいタレントを求めてもっとお金集めをします。そして,メディアに叩かれて失脚します。日本ではよくあることですが,タレントに恵まれない分コーチが選手たちをある型にはめ込み,その通りに動かない選手を殴ったり蹴ったりします。また,ミニや中学でよくあるのですが,ちょっと新しい戦術などを教えてうまくいったことがあると,次の年もその次の年もいつまでもそれをやり続けます。つまり,選手が毎年変わっていてもいつもそれを押しつけるわけです。こうして日本の多くの子どもたちが,バスケットが嫌いになって離れていきます。